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<飯島勲さんインタビュー「イトモス研究所設立と私の働き方」>

―(小倉)安倍晋三元首相、菅義偉前首相、そして岸田文雄首相の助言役として内閣参与(特命担当)を務める飯島勲さんは、小泉純一郎元首相の私設秘書として、永田町でのキャリアをスタートさせた。その後、小泉氏の首相首席秘書官として頭角を現した。1972年に初当選したばかりの小泉純一郎元首相の秘書となってからおよそ半世紀。そんな飯島さんに対して、与野党を問わず永田町の政治家・秘書、霞が関の官僚の多くが畏怖の念を抱いている。そんな「永田町のドン」でも、幼少期を含め、実は、おカネの苦労がずっと絶えなかったという。そこで苦労していた頃の飯島さんがどうやって人生に活路を見出したのかをインタビューした。

(飯島)私が若かった頃は、「貧しい」ということがそんなに珍しいことではない時代だったかもしれない。とはいうものの、兄弟が多かったし、その中でもおカネを稼げるのは私だけだったから、とにかく知恵を振り絞った。
小学生だった当時、あまりおカネのある家庭でなかった私は、学校が終わると納豆を売り歩いていた。
「なっとー、なっとー」
と大人は大きな声を出して売り歩いていたけれど、そんなことやっても、「納豆」を欲しい人以外、誰も出てきてはくれない。私はまったく違うやり方をして辰野町でナンバーワンの納豆セールスになった。
まず町長のところへ行き、家族4人に全員分だといって1箱(5個入り)を置いてくる。それを皮切りに同級生、先輩、知人の家ぜんぶを戸別訪問すれば20個、30個ぐらい簡単にさばけてしまう。1個2円50銭にしかならないのでそれぐらい売りさばかないと話にならないという事情もあったが、何日かすれば300個は売っていた。
私はもらった代金を竹筒に入れて貯めていたのだが、おカネでいっぱいになった竹筒を割ると、デュワーというものすごい音が出る。そのカネの音の心地良さといったらなかった。
納豆で儲けた私はより利幅の大きいアイスキャンデーを売ってひと儲けしようと考えた。次のターゲットは草野球をやっている人たちにした。一カ所に大人数が集まっているので効率がいいはずだ。
キャンデーは順調に売れ始め、これもいい儲けになりそうだ、と考えていたところ、「山に水晶がある」と言いだす子供がいたので、私はキャンデーを放って山へ遊びに行ってしまった。ずっと探したのだけれど水晶は見つからない。暗くなったのでキャンデーの置いてあるところまで帰ったのだが、キャンデーは周りの氷が解けてグチャグチャになり、売り物にならなくなってしまっていた。結局、キャンデー売りは赤字スタート。大失敗だった。

 

―(小倉)飯島さんは18歳になって、東京へ上京してからも、かなりの間、食えない時代が続いたとききました。

(飯島)失敗をあげればキリがないのだが、銀座で絵を売ろうとしたこともあった。友人に頼んで、サクラをしてもらい、銀座の路上で似顔絵描きを始めたが、なかなかお客さんがこない。こないうえに、怖い人が「勝手に路上で商売するな」とおカネを要求してきたので、この商売は断念することにした。
50年以上前のことで言うとデパートの「PARCO(パルコ)」で、ファッションデザインを募集していたことがあって、私も応募したことがある。私が考えたのが「イチョウルック」というもので、婦人服の襟を片方だけにして、銀杏(イチョウ)の葉っぱの形にしてフリルをつけた。私が応募したものは、最終選考までいって、向こうが製品化一歩手前のファッション画にして送ってきたが、あと一歩のところで当選には至らなかった。今考えると、そのイチョウにばかり気をとられず、全体を手抜きせずに描いていたら、ひょっとして当選したかもしれない。―次に、特許事務所に勤めることになりました。そこでは何をしていたのですか。(飯島)そうこうしているうちに、電気関係の権利に強い特許事務所が、私を雇ってくれるというので、働き始めたのだが、給料が安くて、とてもじゃないけど副業をしなくては生きていけなかった。そこで、自動車部品の会社に、自分のアイデアを売り込んでみることにした。こだわったのは自分の仕事を「アイデアを売るだけ」にとどめたこと。
私はあくまでアイデアを売るだけだから、アイデアを買った人たちはそれを使って何を作ろうと「俺が発明したんだ」と大手を振って言える。これは人気が出るはずだと思った。
よく売れたのは、「スキーハンガー」という製品。簡単に言えば、後付けのヘッドレスト(椅子の頭部を支える部分)のこと。今では当たり前になっているが、当時の車にはこれがなかったのだ。原価2000円だったのを6000円で売り出したのだが、これが爆発的な大ヒット。当時は「畳一畳1000円」といわれていた時代。都内で畳一畳分の広さを賃貸契約すると1000円だから、今の物価の10分の1とか、20分の1ぐらい。高さを調整できるようにしたのもよかったのだと思う。だけど、爆発的な大ヒットのせいで、クルマメーカーが標準装備することになり、全く売れなくなってしまった。あまりに売れすぎると、それは標準規格になってしまうのだ。
今となっては違法になってしまったが、クルマの排気ガスを出すマフラーを細工して、走るとものすごい音がする仕組みも売れた。音がたくさん出たら、走っていて目立つだろうなと思って提案した。消音用のマフラーを消音機能がないものに変え、ブンブンブンブンと鳴らす。みんな売れるわけがないと思っていたが、実際、売り出してみるとよく売れた。まさか、せっかくの防音装置を外すということを誰も思いつかなかったのだろう。
アイデア一発で売れたのは、「ドライバー手袋」だ。どこにでも売っている革の手袋の指先の部分だけ切って売った。錦糸町で革の手袋をとても安く売っている卸業者を見つけてきて、あとは指先の部分をハサミで切って、簡単に縫うだけ。元の手袋より、切った分小さくなっているのに、値段が高い(笑)。でもこれも飛ぶように売れたな。今でも、スマホなんかを動かすには、そういう手袋が必要みたいで、ときどきコンビニでも売っているのを見る。
今では大きくなったバックミラーも、昔は本当に小さくて、後ろが見えにくいなと思って、後付けでバックミラーを巨大にできるようにしたものも売れたな。
クルマのドアを開けるとき、ガードレールに当たったりしたことはないだろうか。これをなんとか解決したら売れるのではないかと考えて、ドアを覆うようにできる砂ゴムを開発した。
とにかく、アイデアをひねり出せばおカネになる。クルマ業界では、「飯島のところへ行けばすごいアイデアがもらえる」と噂が噂を呼んで、どんどん依頼がきて、商品化されていった。
右ハンドルのクルマの左側につけるポール、この先端を光らせたらどうなるかと思ったら、やっぱりおカネになった。雨が降っているときに、ドアが開く瞬間、雨に濡れてしまう。そこで、ドアが開いたときに雨よけになるステンレスのドアバイザーもよく売れたな。
雨といえば、傘だ。傘を差して歩くと前が見えなくて怖いと思って、傘の一部をビニールで透明にした商品を開発したこともあった。今となっては特許もなくなったから当たり前のようにみんな作っている。―クルマ以外にも発明をした聞きました。イトモス研究所の設立ですね。(飯島)そうです。折りたたみ式のベビーカーも作ったし、自転車のハンドルの部分の高さを3段階で変えられるようにしたものがある。スピードを上げたいときは、ハンドルの高さを一番下にすると前のめりになって空気抵抗の少ない状態で自転車を漕げる。24時間365日、そんなことばかり考えていた。
そんなことをしているうちに、当時の社長に場所を提供してもらって、私が所長の「ITOMOS(イトモス)研究所」を設立した。設立っていっても、ハッタリ半分の研究所。イトモスっていう名称も、カタカナ4文字が「未来的」「先進的」な響きがあるので、どうしようか悩んで、「【イ】イジマ、【ト】ッテモ、【モ】ウカル、【ス】バラシイ!」の4文字からとった。
「そのへんの特許事務所の事務員です、副業でアイデアの創案をしています」よりも「イトモス研究所所長の飯島です」のほうが、なんかすごい人に見えるような気がしたんだよね。当時は未成年だったから、1歳でも年上に見えるように、背広を着て、見栄えを気にしていたのを覚えている。昼間は9時から5時まで特許事務所、5時からはイトモス研究所の所長として、寝る間を惜しんで働いた。
すぐ弱音を吐く、小倉さんにも、プレジデント編集長時代には「夜の11時は夕方5時と思え」「給料の95%は我慢代だ」とよく言っていましたね。プレジデントから独立したからといってちょっとやそっとのことですぐ音をあげていちゃいけないぞ、と。
これからの人生も含めて、仕事をしていれば、嫌なことぐらいあるよ。当時の私は、それぐらい食べていくために必死だった。でもあのときの日本人はみんな、文句も言わずにそれぐらい働いていたのではないかな。